共有

第二話 離婚していただけますか

作者: 月歌
last update 公開日: 2026-08-10 20:21:59

翌朝、沙耶が目を覚ましたとき、隣に怜司の姿はなかった。

昨夜は書斎で休み、そのまま早朝に屋敷を出たらしい。寝室へ戻った形跡はなく、枕にもシーツにも、彼の温度は残っていなかった。

食堂へ下りると、昨夜の料理はすでに片づけられていた。

結婚記念日のために整えた食卓は、何事もなかったように元へ戻っている。

その中で、離婚届だけが昨夜と同じ場所に残されていた。

妻の署名欄だけが、空白のままだった。

沙耶は、怜司が座るはずだった向かいの席を見つめた。

一か月半ほど前。

怜司はこの屋敷で、沙耶を抱いた。

彼が妻を求める夜は多くなかった。それでも腕を伸ばされるたび、沙耶は拒めなかった。

触れられているあいだだけは、自分が必要とされているように思えたからだ。

愛ではない。

三年の結婚生活の中で身についた習慣にすぎないと、何度も自分に言い聞かせてきた。

それでも、身体を重ねるたびに期待した。

いつか、この距離が心にまで届けばいいと。

その夜に授かった命が、今も自分の中にいる。

沙耶は離婚届へ手を伸ばしかけ、指を止めた。

父親である怜司には、この子の存在を知る権利がある。

分かっている。

けれど、妊娠を告げればどうなるのだろう。

怜司は責任から逃げる人ではない。だからこそ、離婚を撤回するかもしれない。

愛する女を諦め、望んでいない妻と、子供のためだけに夫婦を続ける。

そんな怜司を毎日そばで見ながら、この子を育てていけるのだろうか。

そしていつか、この子自身が、自分の存在が両親を縛ったのだと知ったら。

「どうしたらいいの……」

答えは出なかった。

沙耶は離婚届を封筒へ戻し、食堂の引き出しへしまった。

今はまだ、署名もできない。

妊娠を告げることもできなかった。

昼を少し回った頃、玄関の呼び鈴が鳴った。

ちょうど使用人が奥へ下がっていたため、沙耶は自分でインターホンを確認した。

門の前に、白いワンピースをまとった女が立っていた。肩まで伸びた艶やかな黒髪。色の白い、儚げな顔立ち。

写真でしか見たことはなかった。

それでも、見間違えるはずがない。

一ノ瀬美玲《いちのせ・みれい》。

怜司が五年間、忘れられなかった女。

沙耶はしばらく画面を見つめた。

なぜ、ここへ。

怜司から自分が屋敷にいると聞いたのだろうか。

警戒はした。

それでも、門前で追い返せば、自分が取り乱しているような気がした。

そんな意地が、解錠ボタンを押させた。

玄関へ向かい、扉を開ける。

「突然、申し訳ありません」

美玲は丁寧に頭を下げた。

「少しだけ、お話しできませんか」

怜司のいない時間を選んだのだろうか。

胸に引っかかるものはあったが、沙耶は脇へ退いた。

「どうぞ」

応接室へ通し、向かい合って座る。

沙耶が茶を勧めても、美玲はカップへ触れなかった。

膝の上で重ねられた指は行儀よく揃っている。けれど、指先だけが不自然なほど強く重なっていた。

「怜司さんから、離婚のお話を聞きました」

「そうですか」

「驚かれましたよね」

いたわるような声だった。

だが、その瞳に沙耶を気遣う色は見えない。

「何を話しにいらしたのですか」

沙耶が尋ねると、美玲は一度目を伏せた。

ほんの少しためらったあと、顔を上げる。

「怜司さんと、離婚していただけますか」

昨夜は夫から離婚届を差し出された。

今日は、その夫が愛する女から妻の座を明け渡せと言われている。

胸の奥が鈍く痛んだ。

それでも沙耶は背筋を伸ばした。

「すでに応じると伝えています」

「では、まだ署名はしていないのですね」

「私たち夫婦の問題です」

「夫婦、ですか」

美玲は寂しげに微笑んだ。

その表情を見ていると、まるで自分のほうが二人の間へ入り込んだ人間であるような錯覚さえ覚える。

「怜司さんは、ずっと私を待ってくれていました」

「あなたは、別の男性と海外へ行ったと聞いています」

美玲の顔がわずかに強張った。

すぐに微笑みを戻したが、膝の上で重ねていた指が崩れる。

「若かったのです。離れて初めて、怜司さんがどれほど大切だったか気づきました」

自分から捨てた相手が、いつまでも同じ場所で待っていると信じていたのだろうか。

身勝手だと思った。

そう言ってやりたかった。

けれど怜司は、実際に美玲を選んだ。

沙耶が何を言っても、捨てられる妻の負け惜しみにしかならない。

「離婚届には署名します。これ以上、お話しすることはありません」

沙耶が立ち上がる。

美玲もゆっくり腰を上げた。

その瞬間、下腹部にかすかな痛みが走った。

「……っ」

息を詰め、とっさに腹部へ手を添える。

痛みはすぐに引いた。

だが、美玲の視線は、その手の動きを見逃さなかった。

「もしかして……」

沙耶はすぐに手を離した。

「何ですか」

「いいえ。何でもありません」

美玲は微笑んだ。

けれど、先ほどまであった余裕が、その目から消えている。

応接室を出る。

沙耶は玄関へ案内するつもりだった。

ところが美玲は出口へ向かわず、階段の前で足を止めた。

「美玲さん?」

美玲は手すりへ目をやったあと、突然一歩後ろへ退いた。

踵が階段にかかる。

「来ないでください」

沙耶は眉を寄せた。

「何をおっしゃっているのですか」

「怒っているのでしょう?」

「突然訪ねてきて離婚を迫られれば、穏やかな気持ちではいられません」

声は抑えた。

腹が立っていないと言えば嘘になる。

それでも、美玲に何かするつもりなどない。

「ですが、あなたに危害を加えるつもりはありません。玄関はこちらです。お帰りください」

美玲は答えず、手すりを掴んだ。

そして沙耶から離れるように、階段を上がる。

「出口は上にはありません」

「分かっています」

「では、なぜ階段へ?」

美玲はさらに少し上がった。

逃げるにしては、妙に足取りが遅い。

怯えているように肩をすぼめながら、何度も沙耶を振り返っている。

「近づかないで」

「近づいていません」

二人の間には、まだ距離があった。

それでも美玲は、まるで追い詰められているかのように手すりを強く握る。

「怜司さんを、これ以上苦しめないでください」

「苦しめているのは私だと?」

「あなたが離婚を受け入れてくだされば、すべて元に戻るのです」

「何も元には戻りません」

美玲の表情が揺れた。

「五年前にあなたが怜司を置いていった事実も、私たちが三年間夫婦だった事実も消えません」

「愛されていなかったのに?」

胸の奥へ刃物を差し込まれたようだった。

分かっている。

自分が一番よく分かっていることを、他人の口から言われるだけで、こんなにも痛い。

それでも沙耶は目を逸らさなかった。

「それを決めるのは、あなたではありません」

美玲の目から、儚げな色が消えた。

そのまま上へ向かおうとする。

「上には行かないでください」

沙耶はやむなく階段へ足をかけた。

だが数段上がったところで止まり、それ以上は近づかなかった。

美玲はその少し上にいる。

距離はまだある。

なのに、美玲は逃げ場を失った人間のような顔で沙耶を見ていた。

不自然だった。

最初からずっと。

玄関へ帰ろうとせず、自分から階段へ上がり、近づいていない沙耶に「来ないで」と言う。

何をしようとしているのだろう。

美玲が、手すりを握っていないほうの手を身体の陰へ隠した。

白いワンピースの脇で、指先が小さく動く。

「何をしているのですか」

「何も」

美玲はすぐに手を下ろした。

一瞬だけ、手の中のスマートフォンが見えた。

画面はすでに暗く、何をしていたのかまでは分からない。

けれど、美玲の唇には、ごく薄い笑みが浮かんでいた。

沙耶の胸に、言葉にできない不安が広がった。

◇◇◇

沙耶は知らなかった。

美玲はこの屋敷を訪れる前、すでに怜司へ一通のメッセージを送っていた。

――これから奥様に会ってくるわ。離婚のことを、きちんと話してくる。

そのメッセージは、すぐには読まれなかった。

そして今。

怜司の私用端末へ、二通目の短い文が届いた。

――怖い……来て。

その頃には、先のメッセージに気づいた怜司は、すでに黒崎邸へ向かっていた。

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた   第十九話 信じるべきもの

    翌朝、高瀬メディカルから正式な回答書が届いた。怜司は執務室で封を切り、最初の一文を読んだところで指を止めた。黒崎側が提示した検査記録は、高瀬メディカルが保管する正式記録と一致しない。現在、外部機関を含む関連記録を確認しており、客観的な証明が揃い次第、追加資料を提出する――。怜司は同じ箇所をもう一度読んだ。否定だけではない。高瀬は、証明すると言っている。「どう見ますか」向かいに立つ雅人が尋ねた。怜司は書面から目を上げなかった。「まだ判断できない」「時間を稼いでいる可能性もあります」雅人の声は慎重だった。「高瀬内部に残る記録だけなら、後から整えたと主張することもできます。こちらとしては、予定どおり調査を続けるべきでしょう」「それは当然だ」高瀬が否定したからといって、部品供給をすぐ再開するわけにはいかない。もし本当に安全試験に不正があれば、危険にさらされるのは製品を使う患者だ。疑義が解消されるまでは止める。その判断を下したのは自分だった。だからこそ、最後まで確かめる責任がある。「高瀬会長は、俺との面会を求めているのか」雅人の視線がわずかに動いた。「……はい。何度か」怜司は顔を上げた。「何度か?」「品質保証本部を通じて、直接説明したいとの申し入れがあります」初めて聞く話だった。「なぜ俺に上げなかった」「社長が直接会われれば、調査の公正性を疑われる可能性があります」雅人は淡々と答えた。「離婚直後という事情もあります。高瀬側と個人的な関係があったことは、社内でも知られていますから」「だから説明まで聞くなと?」「少なくとも、品質保証本部で事実関係を整理してからのほうがよろしいかと判断しました」怜司はしばらく雅人を見た。理屈は分かる。

  • 離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた   第十八話 消えない記録

    翌日、高瀬メディカルの検査室から届いた資料が、応接室の机いっぱいに広げられた。沙耶の向かいには、佐伯と相川が座っている。宗一郎は朝から取引先と大学病院への説明に回っていた。本来なら、自分も会社へ行きたかった。けれど医師からは、まだ外出を控えるよう言われている。皆が高瀬を守るために動いているのに、自分だけが家で待っている。そのことが、沙耶にはもどかしかった。「検査機器に残っていた元データは、すべて保全できました」佐伯が厚いファイルを開いた。「社内サーバーの記録も複製して、別の場所へ保存しています。正式記録そのものに、削除や書き換えの痕跡はありません」「……よかった」思わず声が漏れた。まだ安心するには早い。それでも、高瀬が不正をしていないと証明できる記録が残っていた。それだけで、張りつめていた胸がわずかに緩んだ。沙耶は、黒崎側から示された検査表と、高瀬に残る正式な記録を並べた。書式はよく似ている。機体番号も、担当者の名前も一致していた。けれど、試験日時と測定結果が違う。「この時間に、耐久試験は行われていないのですね」「はい」佐伯は黒崎側の資料に記された時刻を指した。「こちらでは、午後二時十二分から試験を開始したことになっています」続いて、高瀬側の記録へ指を移す。「ですが、その時間は検査機器の定期点検中でした」「点検中なら、試験には使えない?」「電源が入っていても、測定はできません。外部の保守会社が精度確認をしていました」つまり、その時間に正式な耐久試験を行うことはできない。沙耶は偽られた検査表を見つめた。怜司も、これを見たのだろう。一見すれば、本物にしか見えない。人の命に関わる製品なのだから、安全性に疑いがあれば止める。その判断そのものは理解できた。理解できるからこそ、胸が痛む。なぜ、一度でも高瀬へ確かめてくれなかったのだろう。なぜ、自分たちの説明を聞く前に停止を承認したのだろう。「点検した記録は、外部にも残っていますか」「保守会社のサーバーにあります」沙耶は顔を上げた。「証明書を出してもらえますか」「すでに依頼しています。ただ、正式な書類になると数日はかかるそうです」数日。今の高瀬には、その数日さえ長い。検査不正の疑いが広がれば、大学病院だけでは済まない。ほかの医療機関から説明を

  • 離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた   第十七話 偽られた検査記録

    翌朝、相川が高瀬メディカル本社から持ち帰った封筒には、黒崎グループ品質保証本部の名が記されていた。沙耶は自室のソファに腰を下ろしたまま、宗一郎と佐伯が見守る前で封を切った。書面の件名を見た瞬間、指が止まる。共同開発品における検査記録改ざんの疑義について。「……改ざん?」これまで黒崎側から示されていたのは、高瀬が提出した検証資料に確認を要する点があり、安全性が確認できるまで部品供給を停止するという説明だけだった。検査記録そのものが改ざんされた可能性がある。そこまで具体的な疑いを突きつけられたのは、初めてだった。沙耶は続きを追う。試作機の耐久試験結果に不自然な数値があること。一部工程について、実施を確認できないにもかかわらず完了扱いとなっていること。そのため安全性の確認が取れるまで、関連部品の供給および追加研究費の支出を継続して停止すること。そして末尾の決裁欄には、黒崎怜司の名があった。「怜司さんが、承認したのですね」宗一郎の表情が険しくなる。「少なくとも、正式な決裁を経た措置なのは間違いあるまい」沙耶はしばらく、その名を見つめた。人命に関わる疑いがあるなら、確認が取れるまで止める。その判断自体は理解できる。理解できるからこそ、胸が痛んだ。怜司は、この資料を見た。そして高瀬を止めることを選んだ。「問題とされている記録を見せてください」佐伯が別紙を差し出した。沙耶は一枚ずつ目を通す。耐久試験の数値。実施日時。担当者名。承認欄。見慣れた高瀬の書式だった。社名を隠して見せられれば、社内文書だと疑わなかったかもしれない。だが佐伯は、数秒見ただけで眉を寄せた。「これは違います」「何がですか」「まず日付です。この試作機の耐久試験をしたのは、こ

  • 離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた   第十六話 疑いの中の面影

    高瀬メディカルへの部品供給を停止してから、数日が過ぎていた。黒崎グループ本社の執務室で、怜司は机の上に置かれた報告書をもう一度開いた。高瀬が作成したとされる検証記録。耐久試験の数値に不自然な食い違いがあり、一部には実施された形跡の確認できない工程まで記載されている。人の身体を支える医療機器だ。疑いがある以上、確認が終わるまで開発を進めるわけにはいかない。そう判断したのは怜司自身だった。部品供給と追加研究費を一時的に止める。ただし、高瀬を不正企業と決めつけるな。事実確認を急げ。数日前、怜司はそう命じて決裁した。その判断そのものを、今も間違いだったとは思っていない。問題は、その先だった。「まだ調査結果が出ないのか」向かいに立つ雅人へ尋ねると、彼はわずかに表情を曇らせた。「確認に時間がかかっております」「何にだ」「元になった記録と、関連部署のデータ照合です。高瀬側にも確認を求めていますが――」怜司は顔を上げた。「高瀬から返答は?」一瞬。ほんのわずかだったが、雅人の言葉が途切れた。「担当役員のところには、いくつか問い合わせが来ているようです」「問い合わせ?」「停止理由の詳細を示してほしい、と」怜司の眉が寄った。「それだけか」「と申しますと?」「高瀬会長が、何も言ってこないのは不自然だ」高瀬宗一郎を、怜司は長く知っている。自社に不正の疑いをかけられ、部品も資金も止められて、それで担当者同士のやり取りだけで済ませる男ではない。まして、身に覚えがないのならなおさらだ。「直接、俺と話したいとは言っていないのか」雅人は慎重に答えた。「先方も社内確認を進めている段階かと。情報が錯綜したまま社長同士で話しても、かえって混乱を招きます」

  • 離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた   第十五話 社長の名を使う男

    一ノ瀬雅人《いちのせ・まさと》は、黒崎グループ本社の役員室で報告書を閉じた。高瀬メディカルへの部品供給は止まっている。追加研究支援も保留された。安全性に疑義があるという報告を受け、最終的に停止を承認したのは怜司自身だ。患者の身体に直接関わる製品である以上、確認が取れるまでは動かさない。怜司なら、そう判断する。私情を挟まず、安全を優先する。だからこそ、雅人には利用しやすかった。「高瀬会長からの連絡は?」向かいに立つ管理担当者へ尋ねる。役員間の連絡経路を扱う男で、以前から雅人の頼みを断らない人間だった。「今日も社長との直接面談を求めています。問題とされた資料について、高瀬側から説明したいと」「社長には?」「まだ上げておりません」雅人は表情を変えなかった。「それでいい。担当部門で確認中だと返しておけ」「ですが、社長からは高瀬側の反論もすべて上げるようにと――」「上げないとは言っていない」雅人は静かに遮った。「整理してから上げる。それだけだ」一日遅れれば、判断も一日遅れる。数日あれば、高瀬はさらに苦しくなる。評価試験は止まり、代替部品を探しても、黒崎製のセンサーと小型モーターを前提にした制御系を簡単には置き換えられない。「高瀬から届いた資料も、いったんこちらへ回せ」「承知しました」男が退出すると、雅人は窓の外へ目を向けた。一ノ瀬エレクトロニクスも、かつては一ノ瀬家の会社だった。センサー。制御基板。精密モーター。会社も、社員も、技術も残った。だが、経営権だけは黒崎へ移った。今の雅人は黒崎本社の執行役員兼電子部品事業部長として、一ノ瀬エレクトロニクスを含む子会社を統括している。出世したと言う者もいる。雅人には、そうは思えなかった。

  • 離婚した冷徹CEOが、五年後、私の息子を見て跪いた   第十四話 止めた責任

    高瀬メディカルへの部品供給と、追加研究支援の一時停止を決裁してから、まだ一日も経っていなかった。黒崎怜司は執務机の上に残された報告書を、もう一度開いた。安全性確認資料の一部に不整合がある。検証条件と実測値が一致せず、正式な検査が行われたのか疑義が残る――。患者が実際に装着する義足へつながる開発だ。安全性に疑いがある状態で供給を続けることはできない。だから、止めた。最終決裁欄へ署名したのは怜司自身だった。その責任まで、報告を上げてきた人間へ押しつけるつもりはない。ただ、資料を読み返すほど、一つの違和感が残った。書かれているのは、あくまで「疑義」だ。それなのに報告全体は、読む者を自然に「高瀬が何かを隠した」という結論へ導くように作られている。怜司は内線へ手を伸ばした。「一ノ瀬を呼べ」ほどなくして、一ノ瀬雅人《いちのせ・まさと》が執務室へ入ってきた。「お呼びでしょうか」「昨日の停止決裁について確認する」怜司は報告書を机の中央へ置いた。「この資料は誰が取りまとめた」「電子部品事業部と品質保証部です。共同開発側から上がった資料も照合しています」「元データは?」雅人が、わずかに間を置く。「現在、確認を進めています」怜司の眉が動いた。「まだ確認できていないのか」「安全性に関わる問題です。完全な裏付けを待ってからでは遅いと判断しました」「停止したことを責めているんじゃない」怜司は低く言った。「決裁したのは俺だ。責任も俺が負う」雅人は黙った。「だが、停止することと、不正を断定することは別だ」「現状では、高瀬側の記録に問題がある可能性は高いかと」「可能性は事実じゃない」怜司は報告書の一頁を指で押さえた。「この数値が正式な検査結果なら、原データがあるはずだ。検査機

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status